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最寄駅から渋谷まで行く。
別に急いでいるわけでもないので、一本見送って各駅停車で。
いつも、休日なのにどうしてこんなに電車が混んでいるのかと思う。
休みの日にどこへも行かずにだらだらと眠っている人間は、意外と少数派なのかもしれない。もしかしたら、今日の僕と同じように、みんなもたまたま外の空気を吸いたくなっただけかもしれない。
都会の空気はよどんでいるが、一人の部屋はそのうえ息苦しい。
それにしたって明らかに急行の方が混んでいる。せっかくの休みなのにどうしてそんなに急ぐんだ、きみたちは。
各駅停車に乗っていると、動物園だとか、水族館だとかに来たみたいだ。
長い席の角に座って、斜めの方から大きな窓越しに流れていく景色を見ていると、おおきな檻や水槽を見ている気持になる。
確かにその向こうにも世界は存在しているのだけれど、その向こうに自分は踏み入ることは、おそらくないのだろう。
あのへんな形の棟はなんだろう、この駅は建物が綺麗だなぁ、ここにも○○があるんだなぁ、
世界を隅々まで知ること、すべての街のお店や、路地のいたるところまで見て回ることはできないという諦めめいたものが、頭の片隅に引っかかっているけれど、それでも僕は動物園も水族館も大好きなのだ。
だから、高校生になってみても、初めて乗った路線が地下鉄だったときなんかは、がっくりくる。
あっ!UFOだっ!!
「あっ、UFOだ!」
友人の後ろの虚空を指さして大声でこう叫ぶ。
小学生くらいの時にきっと誰もが一度はやった遊びではないだろうか。
私は今でもやる。そして大抵、友人は振り返りもせずに残念そうな目をこちらに向けてくるのである。私の友人たちは普段、後ろにも目があることを隠して生きているようである。
もちろん真昼間からUFOが見えるはずもなく、そもそもUFOが存在するのか、という問題が生じるのであるが、それはひとまず置いておいてほしい。
肝心なのは、それなのに振り返ってしまうということである。
後ろに目があったり、おかしな友人に常日頃から付きまとわれていたり、あるいはこのフレーズを知らなければまず、十中八九、人は振り向いてしまう。
UFOという単語を松崎しげるに変えてしまえば、十人中十二人は後ろを向くはずである。松崎しげるは実在するし、昼間の方がよく見える。
この「あっ、UFOだ!」というたわいもない遊びが実は、様々なところで応用されている。
例えば教育で、新聞で、テレビで、宗教で、国会で。
自身にありふれた大きい声があれば、突拍子もない意見だってなんとなく真実味を帯びるものなのである。
それに根拠があるのかどうか、信じ切ったら大笑いする誰かさんの声が、背中から聞こえて来やしないか。
考えてみる余裕。そしてできれば、そんないたずらを仕掛けてきた友人を温かい目でたしなめてほしい。
さて、突然だが今すぐ部屋の窓を開けて外に出てほしい。
空に目を向けると、今日は良く晴れて星も見えるはずだ。
さらによく見ると、その中に紛れて光る点がぷかぷかと右往左往している。
諸君、それこそが私の乗っているUFOである。
もし、見つけられたら手を振ってくれたまえ。
こちらからは良く見える。
夏
梅雨が明けて夏が来た。
僕はクーラーのついた部屋から出るときに、夏を感じる。
ドアを開けると、露出した肌に纏わりつく湿った空気。ぎらぎらと照りつける太陽は乱反射して目に突き刺さる。室内では遠く聞こえた蝉時雨がふいに鮮明になる。
一瞬、くらっとしてしまうが、それがなんだか心地よい。
近くのコンビニでアイスを仕入れた後、また部屋に戻って昼寝をしよう。
日が沈んだら街へ繰り出してみるのもいいかもしれない。
入道雲は駆ける小学生の笑い声をさらうように、遠くで大きくなっている。
青い空はどこまでも青い。
じわじわと汗ばみ、鈍った体はもうすでにクーラーが恋しくなっている。
しかし一方で僕の脳髄は、暑さという極めて原始的な感覚にすっかり酔いしれてしまっている。
夏が来た。